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【特集2】菊池寛

菊池寛 その人生、小説より奇なり

 香川県出身の小説家・菊池寛は、2018年に生誕130年、没後70年を迎える。「父帰る」や「恩讐(おんしゅう)彼方(かなた)に」、テレビドラマで話題になった「真珠夫人」など、後世に残る小説や戯曲を生み出したが、その功績は作品だけにとどまらない。生活に裏打ちされた芸術を目指す「生活第一 芸術第二」を信条とし、生涯の友人であった芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)をして、「僕なぞは芸術にかくれるという方だが、菊池は芸術に(あら)われる―と言ってはおかしいが、芸術は菊池の場合、彼の生活の一部に過ぎないかの観がある…」と言わしめた。愛すべき逸話が数多く残り、それらが執筆の原動力にもなった。

現代の文学も照らす偉業

 学生時代から小説を書いていたものの、1916年(大正5年)に28歳で新聞記者として社会に出る。不器用だが正直で丁寧な取材を行い、誰もが読みやすい記事を書いた。小説や戯曲が少しずつ世に認められて作家専業となり、1920年(大正9年)、社会的な視点で上流階級を描いた新聞小説「真珠夫人」が爆発的にヒット。当代随一の人気作家になった。

 執筆依頼が引きも切らない中、「私は頼まれて物を()うことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云ってみたい」と、1923年(大正12年)に同志を集めて出版したのが月刊雑誌「文藝春秋」である。うどん1杯分ほどの10銭で発行し、高価だった書籍や雑誌の低価格化の先駆けとなった。月ごとにページ数も発行部数も増え、創刊号の3000部が、3年後は11万部になった。昭和になり創作中心の文芸誌から総合雑誌に編集方針を変え、日本を代表する雑誌に育っていく。

 1935年(昭和10年)に「芥川賞」「直木賞」を創設したのも寛だ。「文藝春秋」創刊以来、巻頭に文章を書いていた盟友・芥川龍之介が自死し、目をかけ親しくしていた人気の大衆作家・直木三十五(なおきさんじゅうご)も病死すると、二人の名を後世に残すため、また看板作家の消失を埋める企業家の発想もあり、賞を創設した。

 寛がいなければ、日本の出版や小説文化は、今よりずっと味気ないものだったかもしれない。

生活第一 芸術第二

菊池寛の写真1
菊池寛の写真2
卓球の写真
将棋の写真

波乱万丈の私生活

 菊池家は、高松で代々藩お抱えの儒学者を務める家だったが、明治の改革で没落。生活に窮して、少年時代は教科書も買えず、父親に「写本しろ」と言われるほどだった。それでも学業優秀、知識欲も旺盛で、高松に初めてできた県立図書館に通いつめ、2万冊余りの蔵書のほとんどを読破したと伝わっている。

 旧制高等学校と大学は、6年間で数校に籍を置いた。経済的な支援者との不和、安定した職を得ようと不本意な学校に通っての学業怠慢など、さまざまな事情で除名や中退を繰り返した。唯一、青春を謳歌(おうか)し、後まで交流が続く多くの小説家仲間と出会った第一高等学校も、卒業までわずか3カ月という時に「マント事件」で退学した。友人に借りたマントが盗品で、お金のない寛が盗んだというぬれぎぬをあえてかぶったのだ。苦難にもがきながらも、並外れて人情に厚かった。

 小説や出版事業が成功すると、人生が輝く。「文藝春秋」に加え映画会社の社長も務め、衆議院議員選挙にも立候補(善戦むなしく落選)。多彩な趣味を持ち、マージャンの楽しさを雑誌で広め、競馬好きで多い時には78頭の馬主にもなった。また、「文藝春秋」編集部には卓球台と将棋盤があり、社員がそれらで遊んでばかりなのに業を煮やして禁止令を出したが、最初に禁を破ったのも寛だったという逸話が残る。おおらかで愛嬌(あいきょう)あふれるキャラクターは、人を引きつけずにはいられなかった。

 午前中に執筆し、午後に出社、毎週土曜は家族デーとして妻と子と過ごす家庭的な面もあり、創作だけに没頭するのではない、信条どおりの「生活第一」の暮らしぶりも知られていた。

 この世を去ったのは、第二次世界大戦終戦の3年後。戦時下の文芸銃後運動などを理由に公職を追放され、再び執筆活動に注力し始めた時だった。胃腸の不調が回復した快気祝いのパーティーの夜、狭心症の発作を起こして逝去。数時間前まで、当時の趣味だったダンスのステップを踏んでいたというのが寛らしい。告別式には7000人が参列したと新聞に報じられた。

 高松市の生家前の道路は「菊池寛通り」と名付けられ、中央公園には銅像が建つ。その功績や人間味あふれる生涯を、菊池寛記念館で知ることができる。

「文藝春秋」創刊号の写真
「文藝春秋」創刊号。雑誌名と、記事題名、執筆者名が並んだだけの、簡素な表紙。
(菊池寛記念館所蔵)

寛の原稿の写真
芥川龍之介がいたずら書きをした寛の原稿。芥川は寛の原稿を赤字で修正することもあり、芥川を尊敬する寛はそのまま入稿することもあった。
(菊池寛記念館所蔵)

執筆中の様子の写真
執筆中の様子。「文壇の大御所」と呼ばれ、文藝家協会を組織し、日本文学振興会を設立するなど、作家の地位向上にも努めた。

貼り紙の写真
東京・雑司ヶ谷(ぞうしがや)(現在の豊島区雑司が谷)に建てた豪邸は、よく泥棒に入られた。その泥棒に宛てたユーモラスな貼り紙は、記念館で人気。
(菊池寛記念館所蔵)

菊池寛の像の写真
1956年(昭和31年)に高松市の中央公園に建った菊池寛の像。除幕式には吉川英治が出席し、「幸いにして僕が思っていたより大分ひいき目に、いい男になっていました」と喜んだ。

モニュメントの写真
2017年(平成29年)の夏、彫刻家・流政之さんと、現在の地権者・第一法規の協力で、公益財団法人流財団が菊池寛の生家跡に設置したモニュメント。

菊池寛記念館
菊池寛の功績と人間像を伝える展示室、著書を閲覧できるコーナーがある。また芥川賞・直木賞の展示室があり、受賞作や一部作家の生原稿も見られる。

高松市昭和町1丁目2-20
サンクリスタル高松3階
TEL 087-861-4502

菊池寛記念館の写真1

菊池寛記念館の写真2

参考文献:「菊池寛伝」(菊池寛記念館発行)