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あっぱれ香川【人物伝】山田兼松

人物伝
1929年の「大阪・東京間400マイルマラソン」決勝の日、皇居・二重橋前にトップでゴールインする山田兼松選手。

塩田生まれ、マラソン界の鉄人

 1960年ごろまで、香川県の浜には、塩田(えんでん)が広がっていた。「入り浜式」という製塩方法で塩づくりを行っていたころの話である。しゃく熱の砂浜を駆け回り、塩づくりをする人を「浜子(はまこ)」と呼んだ。その浜子からオリンピック選手になった鉄人がいた。

 その人物、山田兼松は坂出市の出身。塩田業を営む金次郎の末っ子として生まれ、子どものころから塩田の仕事を手伝っていた。朝4時から日暮れまで続く浜の仕事は過酷で、”浜曳(ひ)き”といって焼けるような砂浜を何度も走る作業があった。山田は青年期には地元の修養団に入り、早朝、町内を走り回り、神社仏閣の境内を清掃奉仕していた。山田にとって、走ることは生来身についたものであった。そんな仲間の森井安平、浜田嘉平が、まずは極東選手権大会や日本オリンピック大会で活躍し始め、「塩田マラソン」という言葉も生まれる。

 香川県初のオリンピック選手としては、宇多津町出身の大浦留市がいる。1920年の第7回オリンピック・アントワープ大会に、マラソン選手として出場した。大浦がオリンピック出場報告を兼ねて帰郷した折、地元で歓迎マラソン大会が開催された。森井が1位、浜田が2位、大浦が3位となった。塩田で働く先輩たちの活躍は、兼松少年の心に強烈な印象を残し、「自分もいつかオリンピックへ」と強く誓ったに違いない。それから、驚異的な練習が始まった。普通ならへとへとに疲れ果てる仕事を終えてから、塩田で5千メートルから1万メートルの練習をし、時には夜道をこんぴらさんのある琴平まで往復したという。

 山田の全国大会初出場は、1924年の第1回明治神宮競技大会、1500メートルで4位、翌年の第2回大会では1万メートルで3位。どちらも優勝は逃した。この結果から、中距離をあきらめ、いよいよマラソンに挑むことになる。時代は大正から昭和へと移り、1927年の阪神国道開通記念クロスカントリーに出場、独走態勢で首位に。その名は一躍全国に知れ渡った。そして翌年、オリンピック予選が行われ、優勝を飾って念願の世界を目指す。ところが、父金次郎はオリンピック行きに反対した。当時の世界的な不況は地方にまで及び、山田家では貴重な働き手である兼松が、長期にわたり留守になるのは大変な痛手であった。その時、母親のキヨが「家のことは任せておけ」と息子をかばった。母に手を合わせながら出発した兼松であった。

 翌1928年、下関から韓国の釜山を経て、シベリア鉄道でベルリンへ。1カ月間のベルリン合宿練習の後、第9回オリンピック・アムステルダム大会の舞台、オランダ・アムステルダムに入る。この大会には、46カ国、2694人の選手が参加。5月に開会式が行われ、そして8月5日、号砲のとどろきとともに、マラソンレースがスタートした。2キロ地点で早くも先頭に立った山田。その後も、トップを維持し続け、40キロ地点で2位に200メートル近い差をつけていた。ところが、ここで右膝に激痛が走る。右足をひきずるように走る山田の傍らを、フランス、フィンランド、チリの選手が抜き去っていく。ただただ気力だけで、苦痛に耐えながらゴールに入った山田。当時の日本最高記録2時間35分29秒、日本選手初の4位入賞に、悲願達成と周囲は沸いたが、山田は一人無念の涙を流したという。実は、ベルリンでの練習の際、続く石畳で膝を痛めた。当時の日本人選手の足元は靴ではなく足袋であった。伝説によると、若い日にはだしで走った大会で、ゴールした山田のかかとにくぎが刺さっていたというが、足袋で走る石の道は、足裏ではなく膝に思わぬ負荷をかけてしまった。

 その後、優勝のテープを切り、浜で鍛えた強靱(きょうじん)な精神と肉体を誇示したのは、オリンピックの翌年に開催された「大阪・東京間400マイルマラソン」であった。この競技は正確には605キロを8日間かけて走り抜くという前代未聞のレースで、出場選手は10人。山田は皇居前のゴールに、59時間29分11秒のタイムで入り優勝を飾った。もちろん、日々の寝食は行いながらの競争で、終盤の品川近くで大きな握り飯を食べ終えた山田は、いきなり走り始め、腹が痛くなると心配する応援団に、「胃袋も鍛えてある」と返したという。直後の表彰式の後では、友人をつかまえて銀座に出掛け、友人がくたびれるまで歩いた。

 現在、香川県では毎年、県立丸亀競技場を舞台に「香川丸亀ハーフマラソン大会」を開催しているが、大浦留市、第11回オリンピック・ベルリン大会に出場した塩飽玉男とともに、「山田兼松章」特別表彰を設けている。今なお、その鉄人ぶりが語り継がれる山田兼松である。
(文中敬称略)

アムステルダム五輪でマラソンゲートを出る選手たち。右側鉢巻き姿の264が山田。

山田 兼松
kanematsu yamada
1903年生まれ。坂出市出身。1928年、第9回オリンピック・アムステルダム大会に出場(マラソンで日本選手初の4位入賞)。その後、国内マラソン大会で優勝するなど活躍。引退後は後継者の育成に努める。勲五等双光旭日章を受章。1977年、74歳で逝去。